王に対して、一万タラントの負債があった家来は、返済期間の猶予を懇願した(24~26節)。一タラントは六千デナリに相当するので、六千万デナリの借金があったことになる。当時の一日分の労賃は1デナリだったことを考えると、返済不可能な額だとわかる。ところが、この家来の主君である王は、「かわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった」(27節)。なんと家来の莫大な負債を、すべて免除したのである。「かわいそうに思う」とは、「はらわたが痛むほどのあわれみ」なのだそうである。これほどのあわれみの心は、神様しか持ち合わせていない。
神様のあわれみは、負債を免除することによって現された。神様は、御子イエス様を十字架につけることで、全人類の罪を赦してくださった。罪の負債を、私たちにではなく、御子に背負わされたのである。御子のゆえに、私たちは赦されている。負債を免除されただけでなく、恵みにより、神様の資産を受け継ぐ者とされた。神様の愛は与えることである。赦された者を神の子とし、天の恵みを無限に与え続けてくださるのである。この無限の愛と恵みが、私たちを神に似た、赦す者へと変えていくのである(33節)。