『主がともにおられた』創世記39章1~23節「主がヨセフとともにおられた…」39:2

ヨセフの生涯を一言で表すなら、「主がともにおられた」ではないだろうか。兄弟たちによってエジプトに売られたヨセフだが、ファラオの侍従長ポティファルの家に仕える者となり、やがて主人の家と全財産を委ねられるほど信頼された(1~5節)。主がとともにおられたので、ヨセフは成功する者となったのである(2節)。しかしポティファルの妻に言い寄られ、ヨセフは監獄送りになったが、そこでも主は、彼を成功させた(7~23節)。

 主がともにおられるということは、神様が、その人を通して現れてくださることである。ヨセフはポティファルの妻に誘惑された時、それを拒否して、彼女を避けて仕事をした(9,10節)。「そのような悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか」(9節)。主がともにおられるなら、その人のうちに、主への恐れがある。主が聖い方であるように、その人も、罪をもたらすものから遠ざかり、自分を聖く保とうとするのである(10節)。このようにしてヨセフは、主がともにおられる者として歩んだのである。
 主はヨセフを、イスラエル民族を存続させる器とされた(45:7)。アブラハムの祝福を受け継ぎ、イエス様による全人類の救いを実現させるための、重要な役目を果たしたのである。

 主とともにある私たちを通してもまた、ご自身の計画が実現していきますように。