ぶどうの木のたとえから、天の御国について知ることができる。父なる神様の農園(御国)の中心に、ぶどうの木であるイエス様がおられる。枝である教会は、
イエス様という、ぶどうの木につながってさえいるなら、豊かな実を結ぶのである(5節)。それはイエス様が「まことのぶどうの木」だからである(1節)。
イエス様は父に愛され、父の愛にとどまっておられる(9,10節)。父とイエス様は一つであられる(17:22)。天の御国は父、御子、御霊の交わりである。
私たちは「まことのぶどうの木」であるイエス様によって、この交わりの中に入れられている。イエス様のいのちは、教会に流れ、天の実を結ばせる。
私たちが実を結ぶとき、父が栄光をお受けになる(8節)。御国の栄光が現れるのである。
実を結ぶことと主の弟子となることは、切り離せない(8節)。私たちは、どちらかというと、実を結ぶことに中心を置きがちではないだろうか。
しかし神様にとっては、私たちが「弟子となる」ことの方が大事なのである。弟子とは「イエス様にある私」を生きることである。それは日々、主に委ねて生きることである。そうするときに、主が私から現れる。教会は父の栄光を現すために、この世に存在している。御国をこの地に現わすために…。
「いと高き所で、栄光が神にあるように」(ルカ2:14)。