ガラテヤの教会には、「キリストの福音を変えてしまおうとする」偽教師がおり、問題を引き起こしていた(6~12節)。彼らの教えは、キリストを信じる信仰だけでなく、律法を守り、割礼を受けなければ救われないというものだった。つまり恵みよりも、人間の行いが重要だとする教えであった。福音とは、「私たちの罪のために、キリストが与えられたこと」である(4節)。神の一方的な恵みによるからこそ、福音なのである。
神の恵みは、「御子を私のうちに啓示することを良しとされた」ことである(16節)。私たちの内に、聖い神の御子が住んでくださっているということは、驚くべき奇蹟、恵みなのである。御子キリストという「宝」を、私たちという「土の器」の中に入れている(Ⅱコリント4:7)。
宝が明らかにされるのは、土の器が壊れるときである。かつてのパウロは、神に対して熱心であったが、その熱心は、神に反抗する結果を生み出していた(13,14節)。しかし福音によって、徹底して神の恵みに拠り頼む者となった(15~17節)。恵みはキリストであり、このキリストを啓示することが福音宣教である。
肉が取り扱われ、粉々に砕かれるとき、内なる宝は、その栄光を輝かせるのである。