「だれでもわたしについて来たいと思うなら」(23節)…主イエスに従うことは、強制ではなく、自分の意志による。神様は、人間の自由意思を尊重される。
最初の人間アダムは、その自由意思で、神様に背いて善悪の知識の木の実を食べたことで、罪が人間を支配するようになった(ローマ5:12)。人間に自由意思を与えたことは、神様の失敗だったのだろうか?もちろんそうではない。人間を罪と死から解放するため、ご自身の御子イエス・キリストを人間の身代わりとされ、十字架の死という刑罰を受けさせた。
「神のキリストです」(20節)。主への信仰告白は、自由意思の回復である。主は十字架によって、「自己中心」という間違った自由意志を葬り去ったのである。回復された自由意思で、主に従うことを選ぶのか、あるいは自分の思いを優先させるのか…。私たちの自由意思は、「日々」主に向けられる必要がある。
「自分を捨て、日々自分の十字架を負って」(23節)。主に従うとき、私の古き人は、すでに十字架で死んだことを認める。そして「キリストが私のうちに生きておられる」ことを知る(ガラテヤ2:20)。「わたしに従って来なさい」(23節)。主に従うことは、私たちのいのちなのである(24、25節)。