『神の義とは』ヨブ記8章1~22節「もし、あなたが熱心に神を求め…」8:5
ヨブの3人の友人は、ヨブの苦しみを慰めに来たはずなのに、いつの間にか、苦痛を吐露するヨブを責め立て始めた。シュアハ人ビルダデは、神の正義を全面的に押し出し(3節)、ヨブが神を敬わない者であり(11~19節)、彼の子ども […]
ヨブの3人の友人は、ヨブの苦しみを慰めに来たはずなのに、いつの間にか、苦痛を吐露するヨブを責め立て始めた。シュアハ人ビルダデは、神の正義を全面的に押し出し(3節)、ヨブが神を敬わない者であり(11~19節)、彼の子ども […]
ヨハネは幻の中で、神の右の手に握られた巻物を見た。その巻物には、内側にも外側にも文字が書かれ、七つの封印で封じられていた(1節)。巻物を開き、封印を解くのにふさわしい方は、屠られた子羊としてご自身をささげ、罪と死の力に
クリスチャンが、この世で生きていく上では戦いがある。それは血肉のものではなく、霊的な戦いである(エペソ6:12)。それは世の終わりが近づくにつれ、激しさを増していく。「終わりの時には、嘲る者たちが現れて、自分の不敬虔な
私たちは御子イエス・キリストを信じる信仰によって、神の子どもとされた。それは、天の父から与えられた特権である(ヨハネ1:12)。特権の意味を調べると、「特定の身分、資格のある者だけが持つ、優越的な権利」となっている。
ペテロは変貌山での出来事の目撃者であった(マタイ17:1~8)。イエス様が栄光の姿に変わるのを目の当たりにし、父なる神様の御声を聞いた確かな証人である(16~18節)。しかし預言のみことばは、「さらに確かな」ものである
かつてペテロは、主のためなら、いのちも捨てると言った(ヨハネ13:37)。しかし主が捕らえられたとき、主を捨てて逃げ、三度「主を知らない」と否定した(マタイ26:69~75)。復活された主へのペテロの告白(ヨハネ21:
「みことばは、あなたのすぐ近くにあり」(申命記30:14)。聖書は、いつでも手元で開くことのできる神のことばである。神様は、みことばによって私たちに語ってくださる。聖書通読は、日々の神様の語りかけと受け留め、続けてい
イエス様は罪人を救うため、人として、この世に降誕された。血を流すことがなければ、罪の赦しはない(22節)。イエス様が十字架上で流された血は、すべての人を罪から救うための、完全で十分なものであった(26節)。人間には一度
神様は創造のわざをなし終えたあと、永遠の安息に入っておられる(4節)。イエス様の十字架の贖いは、神ご自身の安息の中に、人間を招き入れるためであった。古き人(肉)は安息を知らない。「何かをすること」に意義を見出し、行いを
救いは私たちの行いの義ではなく、キリストの十字架のみわざによる。それは神の恵みにほかならない(5節)。「聖霊による再生と刷新の洗いもって、私たちを救ってくださいました」(5節)。主を信じる者は、聖霊によって新しく生まれ